ちゃんとしたい日記

30才になった頃にはちゃんとしていたいと思っています

ちゃんとしたいのでちゃんとするとは何かを決める

この記事が一番最初に来るべきであろうに、思いつくのが遅く、当然のように自分語りから始めてしまっていたので、恥ずかしい。ちゃんとしたいと言いながら、漠然とするのをやめたいと思いながら、ちゃんとするとは何なのかについて明らかにすることをしていなかった。今回はそれを明らかにする。

ちゃんとするというのは、フワッとしないということである。私のID・アイコンの感じ・背景色・フォントサイズなどから想像できるように、私はフワッとしがちなのである*1何となく見た目を取り繕い、形式を整えていれば、それでいいだろうと思いがちである。だから、ダイエットなどはやろうと思っているときには大体うまくいくし、文字も綺麗だ。無印良品で家具を集め、ユニクロUみたいな服を集め、コンビニで新しいおやつを見つけながら生活している。映画も好きだが、景色や俳優が美しければそれで満足で、その主張に関してはエンドロールでぼんやりと考えはするものの、分からないところは分からないままにしている。基本的にこのように、思考が散らばっていて、積極的な方向性を持っていない。そのせいで、人と会っているときに社会的問題や流行している事柄や文化について話題に上ったときに、何となくの立場を公表することはできても、その意見を丁寧に説明することはできない。好き/嫌い、いい/悪い、の判定・区別はできるが、その理由はいつも言葉にできないのだ。

そこで、ちゃんとするというのは、明らかな問題意識のもとに各分野で成果の蓄積をすることによって、考えたことを論理的に展開させ、他人に納得してもらえるような言葉で、早口でも上から目線でもない態度で、いつでも自分の意見を発表できるようになることであると決めたい。この目的のために努力する。

*1:人にとっては本当にどうでもいいことだが、IDがこうなのは、就活や人間関係が苦しすぎて一人で寝たきりになっていたときに、部屋のすりガラスに映る外の移ろいゆく光を一日中見つめながらぼんやりしていたことを、忘れないでおこうと思ったためである

ちゃんとしたいのでリストを作る

前回につづき、習慣を作りたいということで、作る。しかし「やるぞ」という気持ちだけではやっていかれない。そんなもので、人間というか私の、低きに流れる速さには到底太刀打ちできない。だから、自分の傾向に合わせて、無理のない範囲のリストを作らなければならない。そこで、まずは習慣をつくるにあたって必要そうな、私の性格の傾向を取り出してみる。

 1)過剰適応しがちである

 2)無目的なコミュニティで失敗する

 3)掘り下げすぎる/詰問しがちである

 4)数個のタスクの同時進行を継続できない

 5)短期記憶が終わっている

わかりやすいので5つにした。これらによっていかにさまざまな問題に直面してきたのかを話したくなってしまうが、今回の話とは関係がないので我慢しよう。次にこれらの傾向に合っていそうな習慣化すべきことを挙げる。

 1)生産性の有無・ダサさにかまわず愚痴をこぼす

 2)目的を立てるとき身近な他人に関する要素は排除する

 3)目的を立てるのに労力をかける

 4)人は簡単には変わらないという意識を強く持つ

 5)予定を立てていつでも見られるようにしておく

低いリストだなという印象を持たれたかもしれないが、私の能力はこのようなものなのだ。もしかしたらこれさえできないかもしれない。この習慣化すべきことのためにどのようなルールを準備するか挙げる。

 1)匿名のツイッターアカウントをつくりそこに書きつける

 2)目的を知人には明かさない

 3)問題意識をふわっとさせず絞る

 4)タスクの重要度について分類し、手順をわきまえる

 5)紙の手帳を常に携帯する*1

以上で、どのような習慣を作りたく、どのようなルールをしくのかを示した。ちなみに、これらのルールに慣れることで、どのような将来像を描いているのかというと、以下である。

 1)愚痴を言わない人間だと誤解させることができる

 2)それは承認欲求によるものだ、と言われるのを避けることができる

 3)自分の論点を人にすぐ提示できるようになる

 4)自分は自分の目的のために蓄積しているのだという実感を得やすくなる

 5)忘れずにすむ

これらはこなすにはあまりに大きすぎ、私はこのようなことを思うと行動が多動になってしまうので、思い出したら見返すという程度にしておく。先ほどあげた習慣を手にすることで、前回かかげた、嫌いな他者に流されず、理性的でくどくない主張をもった人間になれるのではないかと夢想している。実際これによってどうなるのかは分からないが、やってみる。

ちゃんとしてない人間

ちゃんとしたいというのは私の心からの強い願いである。たった20数年しか生きていない未熟者であるが、その年数を積んでいくなかで、私はちゃんとできないほうの人間であるということをつかんできた。高校生のころ、自分は今流行の忖度ができず、本音と建前のちがいを理解することができなかった(今も?)ため、当時入っていた部活では、部長に喧嘩を売りすぎるということで、顧問から退部を言い渡されてしまった。その後参加したサークルやゼミのことも考えると、私は概して実質上無目的なコミュニティではその立場を存続することができにくい性質だといえる。逆に、受験予備校では合格するという明白な目的があったので、何の問題も起こらなかった。

人とコミュニケーションするにあたって欠かせない適切な自己認識をわきまえる方法は、友人がほとんどおらず日常生活からはこれを習得できなかったので、おもにツイッターの人の悪口を言うアカウントによって、「これ私だ…」「これやるのダメなんだ…」と学ぶ習慣ができていった。例えば、相手が重大な問題についてしゃべっているときにそれに参加しようと自分の意見をしゃべることは、あなたは確実に早口であろうし不細工であろうから、そんな人間が自分の意見を言うことで気持ちよくなることは世間的に許されないから、ダメなのだという。それでも私は青かったので、また私と同類の人間が大学にいたので、自分の意見を言うことで満たされようとすることをなかなかやめられなかったが、度重なる人間関係の消滅(現在ツイッター以外の交流はほとんどない)や最後の就職活動によって、固かったはずの意地はすこしずつだが確かに崩れ去り、実家に帰るなどして、自分の生きる力のなさを思い知ったので、適切に人と交流し、傷をなめあっていくことはたいへん重要なことであると認めざるをえなかった。

敗北を認めるからといって、しかしながら、ツイッターで社会性を身につけていくことはやはり嫌だった。なぜなら、嫌いなものの要素をできるだけ取り入れたくないからである。読んでくださってる人には今、駄々だなと思われたかもしれないが、駄々です。私は、ぼんやり人と関わっていたら届く範囲のものに何らかの意義を見出しているような人間になりたくない*1だけでなく、他人を自分の不愉快な過去を反芻させる自慰行為のために利用するような人間にもなりたくないし、汚い言葉でもって相手を中傷していることが原因なのに会話を続けさせてもらえないことで勝利した気になるような人間にもなりたくない。当然、先ほど例として示した、生理的不快感や差別感情をベースに人の悪口を言う人間にもなりたくない。憂き目に遭ったといっても、それらに迎合する気はどうしても起こらなかった。ちなみに一時期は嫌いなものに言及せずに好きなものの話ばかりする取り組みをしていたこともあるのだが、嫌うのをやめることは少なくとも私のような人間にとっては不健康である。

では、嫌なものを見つけざるをえないツイッターから離れて、生身の人間との交流を増やしてそれだけで生きていけるか? それは無理だ。いろいろな人が既に言われているように、会わなくても薄い交流が続けられるというのは、とても魅力的である。特に私は、高頻度で会ってしまうと関係性の構築に失敗してしまう確率が上がる。下手の横好きというのか、私は人に嫌われてもかまわないとは思っていないので、異常なことさえしなければおおむね安定的な関係を得られるツイッターというのは離れがたい。それに、これから生身の人間と出会い、交流し、ゆっくりと共感し合っていく労力を考えるとかなり億劫である。

そうであれば、嫌いな人間もたくさんいるツイッターで関係を保ちつつ、その嫌いな人間からの影響を受けずに生きていけるような、確かな習慣が自分には必要だ。…

1000字を超えてしまったので、習慣については次回につづく。

 

*1:これに関しては特に、嫌いなものは自分のコンプレックスを反映しているとする説が通用する